福岡伸一さん「動的平衡」を読んだ。

私が福岡伸一さんを知ったのは「生物と無生物のあいだ」が最初。
今回も、根拠の曖昧な世の常識、単なる勝手なイメージを、科学の根拠をもってわかりやすく、clear-cutに書いている。
 
記憶とは何か???
 
シェーンハイマーは、「食べ物の中に含まれる物質がまたたく間に身体の一部となり、また次の瞬間にはそれは体外に抜け出していくことを見出し、その分子の流れこそが生きていることだと明らかにした」人物。
著者は、巧みに、読者に対して、細胞の中で絶えず起きている分子レベルの動きを伝えている。
「ヒトを構成している分子は次々と代謝され、新しい分子へと入れ替わっている。」「脳細胞は一度完成すると増殖したり再生することはほとんどないが、それは一度建設された建物がずっとそこに立ち続けているようなものではない。脳細胞を構成している内部の分子群は高速度で変転している。その建造物はいたる部分でリフォームがなされており、建設当時に使われた建材などは何一つ残っていないのである。」うーん、なるほど。
  
このように「細胞の中身は、絶え間のない流転にさらされている」ので、「そこに記憶を物質的に保持しておくことは不可能である。」
 
つまり、「常に代謝回転し続ける物質記憶媒体にすることなどできるはずがない。だから、音楽やデータを記録する媒体として、我々は常により安定した物質を求め続けてきた。レコード、磁気テープ、CD,MD,HD・・・・。」
 
では、記憶は一体どのような形で我々の中に存在しているのか?
それは「おそらく細胞の外側にある」という。「正確に言えば、細胞と細胞のあいだに。神経の細胞(ニューロン)はシナプスという連繋を作って互いに結合している。結合して神経回路を作っている。
 
神経回路は、「クリスマスに飾りつけされたイルミネーションのようなもの」。「電気が通ると順番に明かりがともり、それはある星座を形作る。オリオン座、いて座、こぐま座。」
 
ヒトの記憶もこのようなもの。
 
「たとえ、個々の神経細胞の中身のタンパク質分子が、合成と分解を受けてすっかり入れ替わっても、細胞と細胞とが形作る回路の形は保持される。」
 
これを読んで、細胞レベルでは、分子同士、相手を「形」で識別しているという事実を想起した。形のもつサイン、シグナル、意味、それが記憶の正体か・・・人間も対象を、往々、形で認識しているのでは。男の形、女の形。当てはまらないと混乱する(*^^*)。根拠薄弱なパターン化された型だけど、パターン化は便利だからね。
 
 
「体内時計」の仕組み
「生物の体内細胞の正確な分子メカニズムはいまだに完全には解明されていない」とのこと。
 
「しかし、細胞分裂のタイミングや文化プログラムなどの時間経過は、すべてタンパク質の分解と合成のサイクルによってコントロールされていることがわかっている。つまりタンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針なのである。」
そして、私たちの新陳代謝速度は、「加齢とともに確実に遅くなっている」つまり「体内時計の秒針は徐々にゆっくり回ることになる」ということで、年を経るごとに、時の過ぎ行くのが早く感じるようになるわけ。
 
 
「空耳(ソラミミ)」と「空目(ソラメ)」。我々の脳が作り出す感覚と錯覚。
言語教育は幼児のときがベストというけれど、もともと「胎児期、脳ができはじめるとき、神経細胞は四方八方に触手を伸ばして手当たり次第連結を作り出し、できる限り複雑な回路網を作り出す」という。「その後、母胎からこの世界に生れ出ると、この回路網は『刈り取られて』い」き、、環境に晒されて、さまざまな刺激に遭遇すると、その時に使われる回路は太く強化される。逆に、使われない回路は連結が切れ、消滅していく。このようにして、私たちはこの多様性に満ちた世界と折り合いをつけていくのだ。」使える言語もこうして選択される。
 
この刈取りは、各人が、「それぞれの個別の環境とタイミングで」「膨大な可能性の中から選び取」ってきたもので、「まったく個人的な、一回限りの営み」であり、「私たちの人生の固有性はこのようにして生まれる。」私たちは、一秒一秒、こうして不可逆的な自分だけの路を突き進む。全てが自分らしさを形作っているんだ。
 
このことは「生きていくうえで、とても重要なことではあるのだけど」、同時に、この脳の回路網の固有性が、我々に錯覚を犯させる、という。
だから学び続けることが大事。「私たちを規定する生物学的制約から自由になるために、私たちは学ぶのだ。」
 
「私たちは、本当は無関係のことがらの多くに因果関係を付与しがちである。」そのほうが「世界を図式し、単純化できる」から。「私たちが今、この目で見ている世界はありのままの自然ではなく、加工され、デフォルメされているものなのだ。デフォルメしているのは脳の特殊な操作である」「ヒトの思考が見出した『関係』の多くは妄想でしかない。」
 
しかし、進化はこのような思考の規制だけでなく、「可塑性、つまり自由への扉も開いてくれている。私たちは自ら生物学的規制の外側へ思考を広げることができるのである。」
 
よく言われることに、我々は、「脳のほんのわずかしか使っていない」というのがある。著者によれば、それは、「世界のありようを『ごく直観的にしか見ていない』ということと同義」だそうだ。「世界は私たちの気がつかない部分で、依然として驚きと美しさに満ちている。」
 
ここから著者は「直観に頼るな」という箴言(戒め)を導き出す。「直観が導きやすい誤謬を見直すために、あるいは直感が把握しづらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ、勉強を続けるべき」。
 
著者の主張は基本的にうなづけるものではあるが、人生経験の中で自らの<直観>をかなり徹底して検証してきた。パターンのバリエーションを増やしてきたのかもしれない。そして、いま思うことは、まさに「自らの生物学的制約から自由になるために」、その地平線の先に待つものにイマジネーションを馳せるために、本を読み、見聞を広げていくと同時に、人生は決断の連続であることを思えば、いまに至る自らの個性を<刈り取り>、形作ってきた自らの<直観>をますます大切にしたいと思うこの頃である。
 
 
You are  what you ate.
西洋の諺:「汝とは、汝の食べた食べ物そのものである」。まさにそのとおり。
 
 
※ここで一旦、本を返却(期限超過のため)。