がんの歴史書を読んで(第1回)~「がん」とは細胞の異常増殖

乳がんと牛乳」に続けて、図書館でチラ見していた「病の皇帝「がん」に挑むー人類4000年の苦闘」(原著 "The Emperor of All Maladies/ a Biography of Cancer by Siddhartha Mukherjee” 訳 田中文)を読みました。著者は、1970年インドのニューデリーの生まれで、アメリカの大学に進学した、腫瘍内科医。上下巻あわせて700ページほどあり、こんな大部な本を読むのは久しぶり。

 

ですが、この本、がん医療にかかわる人の必読書ではないかと思います。特に、癌の治療を職業とする「医師」という専門家集団には例外なしに読んでほしい。なぜなら、最近思いを強くするのは、情報量が結果を左右するということ。会社で勤めていてもわかるけど、会社の内実、過去の経緯、背景を押さえているかいないかで、仕事の仕上がりが全然違ってくる。難しいなとか、なんでできないんだろうって自分の能力のなさに落胆するより、むしろ手持ち情報が少ない理由を分析したほうがよい。がんに取り組むのなら、「癌の歴史書」(本の副題は、癌の伝記を意味するbiography of cancer)であるこの本を読んでいるか否かで、見える視界は全然違うんだろうなって思う。文学作品としても素晴らしいと思う。著者独自の視点、観察、分析、理解を、鋭い的確な表現を用いて巧みに描いている。感動が押し寄せ、圧倒される。

 

読んで強く印象付けられたのは、医学・医療の発展とは科学の発展であり、人体実験、動物実験、死体解剖を通じて、ルールも地図もないフロンティアを、情熱と形のないアイディアに突き動かされた医師や研究者たちが、過去の知見と自らの信念を頼りに、たゆまず突き進んだ数々の人生物語が織りなす世界、なのだということ。

 

その長い物語をどう整理しようか考えてみたけれど、本の筋に沿って順に要点をまとめていくより、大胆に、<がんの定義と到達点>(今回)と、がんの治療と予防の歴史と到達点(次回以降)とに分けて、自分なりにまとめてみたい。

 

がんとはなにか?「細胞の無限かつ無制御の増殖」。しかし、このように定義されたのはそれほど古いことではなく、今ではあたりまえのような、<あらゆる生物は(人体も)細胞からできている>、<細胞は細胞からしか生まれない>という「細胞説」を唱えたのは、19世紀のドイツの医師<ウィルヒョウ>だ。成長には「細胞の肥大」と「細胞の過形成」しかないとして、彼は、当時、感染症が原因ではないかとされていた「白血病」を、細胞の「病的な過形成」に分類し、「白い血液のがん(病気)」という意味のLeukimia(ルキーミア)という名を付けた。

 

その前までは、人体は四つの「体液」、血液、黒胆汁、黄胆汁、白い粘液から構成されて「均衡」を保っており、このバランスが崩れると病気になるという、紀元前400年前の医学者<ヒポクラテス>が提唱した「四体液説」が広く深く信じられていたというから驚いた。そして、鬱、メランコリーとともに、がんは黒胆汁の異常によるものだとされ、黒胆汁の流れる管が真剣に探索されていた時代もあったというからさらに驚く。解剖学が未発達で、顕微鏡のない時代の話であることを思えば頷けるけれども(顕微鏡によって初めて「細胞」の発見が可能になったのだから)。

 

細胞(がん細胞)はなぜ無秩序な分裂を始めるのか?<発がん>のメカニズムについては、いまでは、細胞分裂時のコピーミスによる<遺伝子の突然変異の蓄積>とされているが、そこに至る物語は長い。まず<遺伝子>と<突然変異>の発見が必要である。エンドウマメの観察から「遺伝」という現象を発見したのは、修道院の司祭であったメンデルだけど(1860年代)、何らかの<物質>によって世代間で<形質>の受け渡しが行われているだろうと予想はしたものの、その物質がなんであるかなど彼は知ることはなかった。その物質に<遺伝子>という名前がつけられたのは1909年、植物学者による。

 

他方、生物学者の<フレミング>は、化学染料によってサンショウウオ細胞分裂を視覚化することを試み、細胞核内部に強く染まる糸状の構造体があるのを発見し、「染色体」と名付けた(1879年)。また彼は、あらゆる「種」の細胞が固有の数(ヒトは46本)の染色体をもち、細胞分裂ではこの染色体が複製され、分裂により2つの娘細胞(じょうさいぼう:1つの細胞の分裂の結果、生成される2つの細胞のこと)に等分されることを発見する。

 

しかし、遺伝子と染色体を結びつけ、遺伝という子孫への形質継承がこの染色体の複製と分裂によって担われていること、また、遺伝子が染色体という糸状の構造体の中でDNAという化学物質の形で存在することを明らかにしたのは、モーガンというショウジョウバエの研究者だ(1915年)。モーガンはまた、ショウジョウバエの中に突然変異体(表現形が正常と異なる個体)が現れることを発見し、それが遺伝子の変異によること、変異遺伝子もまた世代間で伝わることを発見した(1910年代~)。いま聞くと驚くような内容じゃないけど、当時はすごい発見で、このモーガンさん、1933年にショウジョウバエの遺伝子に関する研究の功績が認められて「ノーベル医学・生理学賞」を受賞している。

 

では、ヒトのがん細胞とショウジョウバエの遺伝子の突然変異がどのように結びつくのだろうか?実はここからが長く、半世紀を要したらしい。

 

モーガンの弟子のマラーは、1920年代には、X線照射によって、モーガンの発見した自然変異(複製時のコピーミス)を人為的に加速できることを発見していた。他方でラジウムを発見したキュリー夫人白血病に倒れたことなどからX線ががんを誘発することは知られていたのだけれど、モーガンとマラーは不仲で、X線⇒発がんと、X線⇒遺伝子の突然変異⇒突然変異体を統合して、遺伝子の突然変異⇒発がんを結びつける想像力を発揮する精神的ゆとりを失ってしまっていたらしい。科学者は、大胆な仮説を打ち立てる想像力と跳躍力、そしてそれを実証する着想と技術が何より大事なのだ。

 

では、その後の半世紀で何が起きたのか。そこではラウス肉腫ウイルスによる発がんの仕組みが注目された。今日、ウイルスによる発がんは肝炎ウイルスなど全体の約15%とされるが、当時はウイルスこそが発がんの唯一の原因であると主張する人たちもいたらしい。しかし、ラウス肉腫ウイルスの増殖に関係する遺伝子がふるいにかけられると、それはあらゆる生物の細胞に存在することが分かり、ただ正常細胞の遺伝子と異なつて、タンパク質の合成を活性化するキナーゼというリン酸化酵素が異常に活性化されている(変異)ことが分かった。ラウス肉腫ウイルスは、がん細胞の変異した遺伝子を取り込んで(!)増殖し、がんをつくっていたのだ。この研究により、ラウス肉腫ウイルスによる発がんは、変異した遺伝子が原因であり、この遺伝子(がん遺伝子)は宿主の正常細胞の遺伝子(原がん遺伝子と呼んだ)に由来することが明らかにされた。さらにその後の研究で、発がんに関わる遺伝子変異には2種類あり、ラウス肉腫ウイルスが利用していた、タンパク質の合成を活性化して細胞分裂を促す「アクセル」としてのがん遺伝子のほか、逆に細胞分裂を抑止する「ブレーキ」としての抗がん遺伝子(がん抑制遺伝子)があることも分かった。どちらの異常も(アクセルの場合は活性化、ブレーキの場合は効きが悪くなる不活性化)、無秩序、無制御な細胞分裂を誘発する。ここまでがモーガン以降、半世紀を要したガンの話。

 

ちなみに、遺発がんを取り巻く環境的・外的要因もいろいろ明らかにされていく。肺がんと喫煙の関係は典型で、1964年のアメリカにおける報告において、喫煙は肺がんの主要な原因であると明確にされている。ほかにも、合成ホルモン、アスベスト、肝炎ウイルスによる慢性炎症、ヘリコバクターピオリ(細菌)による慢性胃炎もまた発がん因子であること1980年代にかけて明らかになっていくが、いずれも、がん予防のための強力な戦略を生むためには、もっと深い発がんメカニズムの理解、これらの発がん因子が何をしているのかを突き止める必要があり、それが、上記のような経緯により、たとえば、たばこの中に含まれるニコチン、タールなどの化学物質や慢性炎症による慢性的な細胞の損傷と修復のサイクルが、細胞内の遺伝子の変異を誘発する一因になっていることがわかってきたのだ。

 

1980年代以降、ヒトは、ヒトのがん遺伝子とがん抑制遺伝子をがん細胞から分離し、特定する作業を進める。細胞内には約2万個の遺伝子(ヒトゲノム計画により2004年に判明)があることが明らかになっているが、腫瘍生物学者のワインバーグは、変異したがん遺伝子は「ほんの一握り」しかないはずと大胆に予想し、素晴らしい技術でがん細胞内の遺伝子(DNA)を正常細胞に移し、無制限の増殖により多数の細胞からなるいびつな山(フォーカス)を形成するかを観察した。1982年にはras(ラース)というがん遺伝子の分離、1986年にはドライジャらとともにRbというがん抑制遺伝子の分離に成功し、これを皮切りに、90年代までに、ほかの多くのがん遺伝子とがん抑制遺伝子の特定がなされることになった。 

 

しかし、遺伝子組み換えマウスにがん遺伝子を組み込んだ実験の結果はイマイチで(がんの発現はわずかであり、時間も要した)、がんが一つの遺伝子変異より突如発生するものではなく、様々な外的、内的要因の影響を受けて、細胞内の遺伝子変異が多段階に進み、同時に細胞自体も正常細胞から前がん細胞、そして浸潤性と転移性を有する悪性細胞へと段階的に進行していく、長くてゆっくりとした「発がんのマーチ」を要するものであることを再認識させる。

 

加えて、発がんにおける遺伝子の働きも明らかになってきた。遺伝子により制御された細胞内では、遺伝子のもつ設計書に従い合成されるタンパクとタンパクとがシグナルの伝達経路を形成し、その有機的な統合によって細胞として機能しているのだけれど、がん遺伝子やがん抑制遺伝子の変異は、細胞分裂にかかわるシグナルの伝達経路を異常に刺激してタンパクの異常な合成を促しているだけでなく、傷を治すための血管を新生するシグナル経路、細胞死を阻止するシグナル経路、免疫細胞が感染巣などに移動する際に利用する運動性を促すシグナル経路などにも働きかけて、正常では考えられない、がん特有の異常な挙動を誘発しているということらしい。いわば、がん細胞は我々のゆがんだバージョン。

 

がんとは何か? がんは、細胞内の遺伝子の突然変異の蓄積により誘発される、細胞の異常増殖であり、血管を新生し、浸潤し、転移をする。がん細胞には確かに遺伝子レベルでの変異があるのだが、正常細胞との違いはほんのわずかに過ぎない。この正常細胞から悪性細胞への形質転換を支配する法則については、2000年にワインバーグらにより発表された「がんの特徴」という論文により、次の6つの細胞生理学的変化が合わさったものであるとされた。

①がん遺伝子の活性化による自律的な増殖能の獲得

②がん抑制遺伝子の不活性化

③細胞死(アポトオ-シス)機能の不活性化

④無制限な複製力

⑤血管をがん細胞の周囲に新生する能力の獲得

⑥多臓器への移動、組織への浸潤、全身転移の能力獲得

 

今回はこれでおしまい。次回は、人類のガンに対する理解の度合いが、ガンの治療と予防の内容を決めてきたことを、がん治療と予防のそれぞれの歴史、治療と予防の間の亀裂と統合などを追いながら、まとめてみたい。

 

なお、文章が粗いので、更新を続けていきたいと思います。